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横浜市立大学医学部第一外科草創のとき

井出 研(昭和34年卒 35年入局)

 横浜開港(1859年)直後に来日した宣教医師シモンズの協力で出発した十全医院は在野のヘボンの外科診察と並んで大きな足跡を残している。大正12年の関東大震災によって壊滅した十全医院はその3年後、大正15年に東洋一とも謳われた偉容と設備をもって現在の市大センター病院の地に新築された。昭和12年、横浜市立十全病院外科医長として秋谷良男先生が赴任された。昭和19年、横浜市に第二次大戦中の国家的要請をうけて軍医の養成を目的とした横浜医学専門学校が設立され十全病院は附属病院となり秋谷良男先生が講師に、ついで昭和20年1月に教授に任命された。また同時に、既に合併されていた隣接の同愛記念病院(大正12年の関東大震災後アメリカの募金により建設された)の外科医長であった須賀井忠雄先生が講師に、ついで昭和22年に教授に昇進し一講座2教授制となった。同年7月朝鮮大邱医専より引き揚げて来た山岸三木雄先生(後に第二外科教授)が講師として着任した。実は当時の医専校長の高木逸磨先生(細菌学者で鼠咬症スピロヘーターの発見者)の一存からなされた人事構想であったと後に大いに学内で議論されたことであるが、一講座3教授は異例であるとして教授は秋谷先生一人のみとし須賀井、山岸は講師に降格、留任の異例の人事となった。須賀井先生はその後、昭和37年に助教授に昇進後、神奈川県立成人病センター(現がんセンター)の開設に伴い外科部長として赴任された。一方、山岸先生は秋谷教授と診療上の方針等の軋轢もあったが、昭和26年5月教授に任命されて同年12月には第二外科として独立が認められた。この間、当時の医局、教室員は秋谷派、山岸派と分かれて研究、診療上に困惑する時代が続いたようである。しかし、実際にカルテが両教授各々の管理下で扱われるようになったのは昭和27年1月であったと第二外科の先輩、衣笠昭先生(医専2回生、故人)は回想されていて、同学年の牧志真一先生はA組、Y組とすぐに見分けがつくようにカルテの表紙に押すゴム印を作ったと証言している(第二外科開講五十年誌より)。しかし、単に歳月を経たからだけではなく、実際にはどちらにも属さない先生がいたという程、他の先生方の記憶も混沌としていたのが草創のときの一場面のようである。

 この頃、本邦で麻酔に関する特筆すべき事柄があった。現在では地下高速道路の架橋となった、当時日本で最も古い鉄橋として知られる吉田橋のたもとに松屋デパートがあり、アメリカ軍の進駐に伴いアメリカ陸軍病院(155 Station Hospital)として改修、使用されていた。軍医達が医専附属の十全医院を訪れるうちにアメリカでは既に通常に使われていた閉鎖式循環麻酔を教えてほしいとの旨を日本側が希望した。アメリカ軍がこれを快諾して小幡照治先生、衣笠昭先生らが一外、二外の枠を越えて実地研修に行き始め、横浜医専における初めての閉鎖循環式麻酔の始まりとなった。アイカ製の器械が出始めていたが極めて貴重なものであり、東京大学から何度も借りに来たとのことで将に本邦での近代麻酔の創始といえる。

 ここで初代第一外科秋谷良男教授のプロフィールを述べる。明治30年埼玉県にて出生、代々眼科を業とした家系であったが、大正12年東京帝国大学医学部卒業、直後に外科学の泰斗である塩田広重教授の教室に入局。昭和7年東京警察病院外科、翌8年大分県立病院外科医長兼副院長となり、昭和12年横浜市立十全医院に外科医長として赴任した。以来、昭和38年3月の定年まで多くの学生、門下生を育てた。専門は塩田外科の伝統を継ぎ消化器、特に胃手術を得意とされたが、また乳癌手術もよくされた。秋谷外科の他の分野を含めての業績は胃切除後の低血糖症候群、常習性便秘の外科治療、乳腺腫瘍、肺結核、全身麻酔の換気波、トロトラスト障害等であった。筆者が入局後3年の間に教授執刀の手術に入った時の記憶では“同じ動作は2度としない”と言わんばかりの流れるような美しい手術であった。回診中の先生の表情は極めて厳しく、受け持ち医の先輩達はいつも何らかの理由で怒られていたが、先輩達の話では医局の中での怒られる順位があって、その番(?)に当ると約半年間は徹底して怒られるとのことであった。退院の許可は当然教授から出るものであったが、下っ端の私が自分が執刀した虫垂炎の患者を自らの判断で退院させてしまった事がある。その患者の居るべきベッドサイドに回ってこられた秋谷先生は“ここにいたアッペはどうした”と聞かれ、私が“良くなったので退院させました”というと“誰の許可で帰したんだ”と元々鋭い射るが如き眼差し!一瞬、凍りついた私。この怖いベッドサイド教育は私の3年上の先輩で終りを告げ先生は定年を迎えられた。これでも後で聞けば定年間近の2-3年は“温和”であったとのこと。先生の趣味は油絵、俳句(号は芋邦)、囲碁であった。五十歳から始めたといわれる油絵は素晴しく、先生の退任の時には古い先輩達が各々オークションばりに好きな作品を戴いて行った。又、当時の暗い医局の奥には碁盤があって、手術や回診を終えられると誰彼となくそこに居合わせた医局員を相手に楽しんでおられた。さし了えた一刻、傍にいた筆者に、恩師の塩田先生の思い出を語られたなかに一言、“救うこと神の如しだ”と言われた時には、その純心さに心を打たれた思い出がある。そのあと筆者に向かって“研ちゃん、君はどうだ”と聞かれて驚いた私は“僕もその通りです”と答えた憶えがある。

 現在、教室で毎年編集されている第一外科名簿をみると名簿順位1番は鹿島誠先生で昭和4年入局となっている。医育機関になる前の十全医院外科に就職されていたもので退局はいつか定かではないが、日之出町交差点の野毛山寄りの通りに面した所で鹿島医院を開業されていて、秋谷先生が会長をされていた横浜外科医会(毎月例会が旧横浜市医師会館で開かれていた)に昭和35-6年にはよくお顔をみせておられたのを憶えている。昭和15年には山縣達一先生が入局され、二外科制になる迄在局されていたが、前述したように草創期の医局の分割の不鮮明さから、第二外科の在籍者として掲載され公認されている。その後第二外科より掖済会病院に出られて院長を長く務められた。昭和20年(終戦の年)には医史学界の新鋭であり重鎮であった石原明先生が入局。石原先生は秋谷先生の下で外科の修行をされたが、途中からもともと造詣の深かった医史学に転向された。医史学講師となられても第一外科病棟(古い同門の先生には懐かしい1-2病棟)の一隅をご自分の部屋として使用され、日夜精力的に医学史及び東洋医学の執筆をされていた。昭和34年、私が立ち上げた東洋医学研究会の指導も熱心にされ、その蔵書は二千冊を超えていたと思われ、大学院設置の時には極めて重要な役割を果たした。しかし昭和54年食道静脈瘤破裂の大量吐血により第一外科医局員に見守られ逝去された。日本の医史学にとっては惜しい存在であった。同時に入局したのは永年両外科を合わせても紅一点であった木金ハツ子先生(帝国女子医専卒、平成23年1月逝去93歳)と坪生晟先生、木下操六先生であった。坪井先生は県立成人病センターを経て県立がんセンター所長となられた後、神奈川県予防医学協会で長く所長を務められ、現在は平塚市の自宅でご健在である。手術は流麗で秋谷手術の後継者と言われた。昭和24年には3名、25年には10名、26年5名、27年7名と入局者が続いた。昭和25年の渡辺隆一郎先生、有馬正秀先生、田村暢男先生、斉藤稔先生が横浜医専第一回生として先頭を切って入局されたが、昭和29年迄は横浜以外の出身者が大半を占めていたので、若かった私共も出身大学などは全く意識をしない環境で育っていった。

 昭和31年に横浜医専第3回生が6名という大幅な人数で入局したが、年を経る毎に次第に横浜出身者の人数が増え、昭和35年(筆者の入局)以降4-8名の入局が通例となった。

 第二代教授に東京大学昭和23年卒の和田達雄先生を迎えた。和田教授は就任当時38歳で、東大第二外科の助手として木本教授の元で血管外科を専攻され本邦に於ける大動脈瘤に対する人工血管移植術などの業績をあげられていた。しかし、当時の教授選考では消化器との兼ね合いでかなり議論のあったところらしい。というのは第二外科では消化器専門でいく路線は殆ど決まっていることであり、そのために教授会としては第一外科に新しい血を吹き込もうとの意図であったようだ。新任の和田教授は従来の秋谷教授の専門とする消化器のみでなく心臓血管外科を行う一般外科学教室を了承されて、昭和38年7月1日に着任された。直ちに2名の医局員を心臓外科の研修のために東大外科へ週2回ずつ出張させる事を決めたが、実際には人工心肺の操作が主な目的であり小幡照治、高橋和弥両先生の二名が指名された。翌39年より予算のついた人工心肺を使用して開心術第一例目(ASD)が6月17日、3歳児に対して行われた。勿論、それまでにも血管手術としてはBuerger病やLeriche病が行われており、今迄見た事のない血管外科の豪快さに目を見張ったものである。和田教授は自らの血管手術手技、血管外科の知識を活かして悪性腫瘍の根治手術にも熱意を示されて、胃癌の超拡大手術ともいえる“Appleby手術”を完成された。また食道癌の結腸再建において、当時行われていた右結腸動脈を用いずに左結腸動脈による再建術を考案されたのは明らかに結腸動脈の側副血行路を熟知していたための成果であった。

 和田教授は“教室員に研究する自由はあるが、研究しない自由はない”と常々いわれていた。また教育にも熱心で新人医局員を看護婦の指揮下においてベッドメーキングのトレーニングをさせた事もあった。また自分が望んでいればすすんで術者に選んでくれて、私も当時余り手を出さなかった新生児、小児外科手術を専門のようにやらせて戴いた。私が講師に任ぜられた時には“これから何を目指すか”と聞かれたので、前述した須賀井先生に肺結核の手術の前立ちをして戴いて以来肺に関心を持っていたこともあり、一般外科と心臓グループでの経験を基に、20年近く途絶えていた呼吸器・肺外科を希望したところ、即座に了承されて両外科を通じての新分野を拓くことになった。現在では多くの呼吸器外科医が各所で活躍しておりその礎となった。

 将来心臓外科をと目されていた小幡照治先生が交通事故により退職されたため、昭和39年に東大第二外科から松本昭彦先生が講師として迎えられた。松本先生に心臓・血管の大部分を任せるようになったため、病室の受け持ち体制を消化器を含む一般外科と心臓・血管外科グループとに分け、中堅以上は各々の専門として固定するようになった。その結果、手術は勿論のこと術前・中・後の患者管理に格段の進歩がみられ手術成績も向上したのは画期的であった。心臓外科を始めるにあたって東大二外から上井巌、山崎善弥の両先生が非常勤として派遣され、犬での人工心肺実験を指導していただいた。和田教授は、一般・心血管を問わず誰にでも管理、手術ができるように望んで居られたようにも見えたが、グループ分けは手術成績を良くするための私共の強い希望であった。

 在任13年にして和田教授が東京大学第二外科の教授に迎えられ去られたあと、松本昭彦先生が教授に選考されたが、教室の方針は消化器を含めた一般外科と心血管外科とを合わせ持つ教室として変更はなかった。松本教授は和田前教授と同様に心・血管の指導、監督をされ、消化器・甲状腺などの一般外科は五島助教授が、肺・縦隔・甲状腺は私(井出;当時講師)が、心血管は佐藤順講師と近藤治郎講師が各々指導にあたった。

 関連病院について述べると、秋谷外科の時代は現在のように国公立・私立を合わせても県内、市内に病院は極めて少なかったので、県立足柄上病院外科、県立成人病センター外科の二カ所であった。和田外科になってから新しく公立病院が建設されるようになり、上記に加えて横浜市民病院、県立こども医療センター、国際親善病院、平塚共済病院、三浦市立病院、横浜南共済病院、横浜市立港湾病院が関連施設となった。松本外科では横浜市南部病院、横須賀共済病院、藤沢湘南台病院などが加わっていった。

 教室員の出身校については昭和20年以降、筆者の入局前年の昭和34年迄は総数33名のうち自校出身者は16名で、17名は他校出身者であった。他校出身の先生達はすでに学位論文を仕上げてからの入局であったので各々風格を出しあって、教室内は極めて和気藹々の雰囲気であった。