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「和田外科から松本外科」

天野富薫 〔昭和40年卒 41年入局〕

1.和田外科〔第一外科〕から

和田教授が2代目の教授となり、「一般・消化器外科を主として胸部心臓血管外科の特色をもった外科学教室」となった。また外科全般にわたる診断、治療に広い見識と技量を併せ持った外科医の養成を行うこととなった。私が入局した時は和田教授、松本喜幹助教授、松本昭彦講師、野末講師以下教室員が約40名いたが、殆んど卒後5,6年以下で無給医、未婚者であった。よく遊べ、よく学べと教授〔当時40歳〕以下連れ立って巷を徘徊し、そこでも教授から勉強しろ{研究する自由はあるが、研究しない自由はない}と尻を叩かれた。

当時、術者は教授、助教授で、手術は見て覚えるものと言われた時代であった。術者になる機会は少なく、術者の周りには見学者が、時にPernkopfの解剖図譜を開きながら取り囲んでいた。

当時若手は専ら術後管理に徹していた。開心術や食道癌術後管理は本当に大変であった。人工呼吸器が無かったので、麻酔器のバックを手で押し続ける補助呼吸を何日も続けていた。術後は大抵何日も徹夜が続き、当直室はもちろん空き部屋にまで医師が溢れていた。上級医師は心配で帰れず近傍の麻雀屋で時間を費やし、解散の号令まで解放されなかった。和田教授の回診が隔日に行われ、検査は自分らで行い何とか回診までに間に合わせた。

最初の手術である虫垂切除の術者は、白血球数を最初に測定した人と決められていたので、胸ポケットにメランジュール,計算板が収まっていた。入局して半年後に初めて手術が許された。

最初の開腹手術は胆嚢摘除で、次の胃切除〔胃潰瘍〕は,4、5年目頃に術者になれた。術者はそれまでの指導に感謝して、初めての手術の後で寿司などを医局全員に振舞った。その頃は外科の開業医でも胃潰瘍の手術が盛んに行われていたので、先輩達は外勤で腕を挙げて、胃潰瘍の胃切除は45分で行ったなどと自慢し合っていた。

ベッドフリーの医師も大勢居たので、時間的に余裕もあり、動物実験が盛んに行われ、犬舎(現センター病院の駐車場入り口付近)を確保するのが難しいほどであった。実験動物慰霊祭と納涼会を八景の伊藤博文の別邸で行っていた。

2.無給医

教授から助手の6人以外は無給であったので、週一回の外勤〔非常勤)と当直が収入源であったが、暇をみつけ連れ立って、(赤チョッキ)(姉妹)などに飲みに行ったので蓄えが殆ど無かった。やがて適齢期になった先輩達は結婚資金を稼ぐために捕鯨船の船医として3ヶ月の出稼ぎに行った。根岸に燃料を補給に来たタンカーに乗り込み母船に向かった。母船に行くまで嵐にあったり、船上で手術をしたり、蒸留水を作ったりと苦労話を聞いた。やがて無給医をなくす運動がおき、白衣で市役所までデモをした。それを聞いた生活保護の患者さんが可哀想だといくらかお金を包んでくれた。そのエピソードを聞いたある先生が「医師の社会的地位は生活保護以下か」と嘆いた。

3.心臓血管グループの独立

消化器一般外科の松本喜幹助教授が県立こども病院副院長で転出された後、松本昭彦助教授が、それまで混合して診療していたのを、心臓外科の研究、診療の独自性と成績向上のためにと、心臓血管グループを独立させた。一般・消化器グループ〔和田、五島講師〕と診療研究グループが二分した。

当時、両研究グループは天城高原の山荘まで行き夜を徹して研究内容について、議論、アドバイスをして、競い合っていた。博士論文の内容はここで検討されていた。若手はこの会で興味のある研究を手伝いグループを決めた者もいた。私が5年ほど空けて大学病院に再度赴任した時には、この会は研究+ゴルフの会になっていた。関連病院が増え、新入局員減少、大学病院スタッフ定員化により大学に所属する医局員の人数も減り、日常診療に追われ研究する余裕もなくなり、山荘も使えなくなり、この研究会もやがて無くなった。

入局後3、4年までは所属を決めずに両グループを研修した。その後所属する研究グループがきめられた。このことは、外科全般に見識を持ち、将来の専門分野の視野、技量を高めるのに大いに役立った。

4.診断について

40年代から60年にかけて、消化器、心臓血管の診断は主に外科医が行っていた。診断から診療まで一貫して行うので、診断した状況を術野、標本で直接確認出来たため診断精度は高まっていった。食道・胃の内視鏡は特に初めての直視鏡である食道ファイバーの試作品(オリンパス社)を小泉、天野が使って逸早く診断した。大腸の二重造影や内視鏡検査の講習会に行き、その技量を競っていた。気管支ファイバースコピー、心臓カテーテル、血管造影Seldinger法など外科医がもっぱら行って診断していた。若手の外科医が診断に力を入れていたことから研究もその中から派生した。

最近は、外科医は手術屋になってしまった。放射線科、内視鏡科に研修することも広い見識を持った外科医になる上には必要のように思う。早期癌の切除は内科の内視鏡医の手に渡ってしまった。

松本教授になり大学のスタッフも各グループがほぼ半々になり、それに伴い関連病院も増えた。これについては後述する。

私が成人病センターから帰った1年後に、和田教授が東京大学に行かれ、松本(昭)教授が第3代教授になった。しばらくして医局員が増え、疾患それぞれの診断(内視鏡検査、超音波検査、CTなどの画像検査など)、治療、管理(人工呼吸器管理、中心静脈栄養法)の発展が目覚しくなり教室のレベルを挙げることを考え、五島助教授と消化器・一般外科の今後について相談した。そこで国内外の一流どころの研修に行ってもらうことになった。

5.国内外への研修派遣

上部消化管外科(胃癌):

日本の癌手術のカリスマ的存在である癌研の梶谷先生の手術と癌治療に対する哲学を体験することを五島先生が提案され、今田先生、田村先生、野口先生らが研修した。野口はSloan Kettering Cancer Centerに留学し癌代謝の研究の礎を築いた。

天野、藤本、今田、山本、利野の大学の胃グループと成人病センター(現神奈川県立がんセンター)の岡本、本橋、西蓮寺、小林、円谷、吉川らと連携して研修、研究を行っていた。

本橋、天野らが発起人になり神奈川胃癌治療研究会をおこし、県内の大学、病院が殆ど参加している。現在は今田、円谷が代表世話人になっている。

肝臓外科:

当時、超音波を用いて肝の脈管を同定して画期的な肝区域亜区域切除行っていた国立癌センター長谷川先生、幕内先生の下に鈴木(弘)を派遣した。診断、術前後の管理、術式を学んで来たので肝の診断治療成績が向上した。その後蓮尾〔秦野赤十字〕、森永〔神奈川県立がんセンター〕らが続き肝・胆・膵グループに発展した。

甲状腺外科:

秋谷外科時代に坪井が教授のやらない甲状腺外科を始め、五島、井出のもとに甲状腺グループが始まった。真鍋を放射線と甲状腺癌の研究に広島の原爆病院に派遣した。甲状腺疾患のメッカである原宿の伊藤病院を関連施設にして、真鍋、吉田〔神奈川県立がんセンター〕、呉〔呉クリニック〕、杉野〔伊藤病院副院長〕、岩崎〔野村病院〕、和田〔関内わだクリニック〕らが出向き、伊藤病院の外科は第一外科で成り立っているといわれている。

岩崎がWashington univ.に留学して、甲状腺疾患(MEN)の遺伝子解析の道を開き.継いで平川、松津らはWake Forest Univ. に留学しSIPPLE症候群の遺伝子解析を研究した。

心臓血管外科:

松本教授の時に国立循環器病センターへ坂本哲、浦中が研修に行き、戸部,真鍋が年間6000例の心臓手術を行うドイツのバードユーンハウゼン心臓病センターの南教授のもとに留学した。

呼吸器外科:国立中野病院で縦隔鏡を用いてリンパ転移を診断して、術式の適応を検討していた。その点にも注目し、症例が多い施設での研修に久保(秋)〔久保クリニック〕を派遣した。その後希望者が増え、加瀬〔横須賀うわまち病院〕、林〔林クリニック〕、小川〔小川クリニック〕、前原〔横浜労災〕らが研修した。

国立がんセンターから中山が神奈川県立がんセンターの部長に赴任し、諸星〔横須賀共済〕、田尻〔循呼センター〕、坂本〔横浜医療センター〕らがそれぞれ部長となり関連病院が増えた。

6.関連病院について

昭和38年に和田教授が着任し、昭和40年の前半は横浜市民病院、港湾病院、成人病センター(がんセンター)、県立足柄上病院の外科に、秋谷外科の先生方が1~3人ほど居て、その下で1~2人がローテーションしていた状態であった。

昭和40年後半から50年代の和田外科と松本外科の時代は教室員も卒後10年生以上が増え、関連病院を拡張し、獲得するために努力した時代でもあった。

横浜市立市民病院外科
開院当初の外科から秋谷外科と山岸外科から2人ずつ出て、そこに第1外科から40年後半までローテーションしていた。外科は第2外科が占め、一時撤退していたが、胸部外科が開設され、初めに心血管外科を蔵田部長と呼吸器外科を加瀬部長が担当となり関連施設に復活した。現在は呼吸器外科の派遣はなく、心臓血管外科の浦中部長のもとに若手がローテートしている。

県立足柄上病院外科
秋谷外科の淺川外科部長の下にローテーションしていた。ここは開頭術から色々な手術ができ、ゴルフが上達する関連病院であった。浅川部長が院長となり後任に尾上部長、堀口部長が後に院長就任し、益川とともに発展させた。現在は山本(裕)が部長を経て院長に就任している。

横浜南共済病院外科
外科部長が後任を出身の東北大に求めているとの噂があり、小泉が働いて、第一外科から出ることになった。有田(峰)が就職し、45年に五島部長 有田(峰)、ローテートの天野、河野〔城島〕が出て関連病院となった。五島が大学に戻り、有田(峰)が部長に就任した歴代部長は有田(英)、富田、清水、松川へと引き継がれ、手術数の多い拠点病院となった。

平塚共済病院外科
当初、他大学の外科部長の下でローテートしていた。部長が胃癌の手術を受けるとの知らせで、関連病院にほしいと田中茂部長以下3,4名が就任、本当は潰瘍だったが部長がやめられて、希望者の最も多い関連施設となった。その後、平塚市民病院と競合したため、やや衰退気味であったが、小泉部長、熊本が赴任し以前より増して再興した。その後片山部長から現在の白石部長に至る。

秦野赤十字病院外科
市大卒の外科部長の蜷川先生が既に居て、ローテーションで医員を希望され、鈴木元が(天野が手伝い)赴任し、外科を任されることになった。その後、城島外科部長が就任し関連病院となり、鈴木(弘)部長から現在の蓮尾部長に至る。

三浦市立病院外科
三浦市立病院は永井(医局の先輩)が一人で頑張っておられた。退職された後に、土屋部長、五十嵐部長(その後院長就任)が就任された。現在の小澤部長・院長が新病院設立に尽力し活躍している。

神奈川県立こども医療センター
松本(喜)副院長 角田部長が第一外科の助教授、講師から設立に加わった。小児外科研修のためローテートしていた西が就職し、部長(院長)となり、小児外科の研修の場になっていた。現在、武が頑張っており、新開部長が外科治療学客員教授に就任された。
当初は心臓血管外科もスタッフを派遣していたが、長く縁が切れていた。最近麻生〔九州大〕心臓血管部長が赴任され、第一外科に入局した。

神奈川県立循環器呼吸器センター
県立谷津坂病院(結核)の田中院長から相談があり、松本教授が県に働きかけて循環器と呼吸器センターを作ることになり、第一外科にまかされることとなった。河野が整備し、佐藤部長(院長)が就任された。その後、心臓血管外科は河野部長、梶原部長、呼吸器外科は小川部長を中心に循環器呼吸器の関連病院となった。
現在はそれぞれ徳永部長(九大、外科治療学入局)、田尻部長のもとに若手が研修している。

神奈川県立成人病センター(現神奈川県立がんセンター)
県立成人病センター設立当初から、診断部門に坪井、呼吸器外科に須賀井、消化器外科の田村と3名の秋谷外科出身の先生方がいらした。その下でローテーションをしていたが、44~45年の病院の拡張により外科に岡本、石田、竹内、大森、本橋、堀口、伊藤,福円、天野、本橋、武宮、増沢、西蓮寺が就職し、二俣川外科病院と揶揄されるほどになった。
昭和61年に県立がんセンター〔初代センター長:和田元教授〕に改変された。外科では呼吸器〔石橋、中山〕、乳腺・甲状腺〔吉田、麻賀、清水〕、食道〔小泉〕、胃〔本橋、小林、円谷、吉川〕、大腸・肝胆膵〔岡本、武宮、杉政、赤池、塩澤〕が部長に就任した。部長以下のスタッフ医師の大半はすべて第1外科出身で、歴代の病院長、センター長も8代ほど継いでいる。癌全般の臨床、研究の研修の場としてローテートし、将来の専門医の育成に役立っている。

横浜市立港湾病院外科
設立当初、秋谷外科からの今井院長のもと1人がローテートしていたが、昭和50年になり吉田部長、遠藤が就職され、ローテート2人の4人体制になった。田中(聡)が腹腔下胆嚢摘出術を先駆けて研修したため、症例が増えていた。さらに松本院長、吉田,遠藤、山本(裕)に野口が加わり外科が盛んに業績を上げていたが、中田宏横浜市長(当時)の方針で閉院となった。

伊藤病院
甲状腺の専門病院として 五島先生が前の伊藤院長との間で専門医を育てるのに良いと考え、真鍋、呉、吉田をはじめ現在までローテートが続いている。その後は杉野副院長を初め甲状腺外科は専ら甲状腺グループが担当している。

国際医療福祉大学付属熱海病院外科
国立熱海病院が統廃合により国際医療福祉大学熱海病院として平成14年に継承された。岩崎が新病院開設前に赴任して外科教授になり、250床の新病院も出来関連病院となった。高梨教授が病院長に就任して岩崎のもと5名のスタッフが業績を挙げた。高梨、岩崎教授が退職されたが、田辺准教授、羽鳥准教授が頑張っている。

社会保険相模野病院
解剖の勝又名誉教授の親戚が理事をしていて、外科を横浜市大にお願いしたいとの話があり、松村部長〔副院長〕宮崎部長として関連施設となっていた。しかし、人員不足などで充填できず北里大学にゆずった。

済生会横浜市南部病院
病院の設立から五島が頑張っていた。済生会と市との間で、外科系は横浜市大、内科系は慶応大系という布陣にきまった。当初、外科は第一外科から出す予定であったが、第二外科の竹村助教授が五島部長の下に出ることなり、外科の人員を半分に分ける体制となった。昭和58年に開院し、第一外科からは五島部長、須田、横山がでた。その後両外科の均衡を保つために、今田、山本のエース級を投入したこともあって、両外科から派遣する体制が続いている。現在は今田が院長に就任している。
心臓血管外科に相馬部長、坂本哲部長が就任し、3人体制で症例数を徐々に増やしていった。現在は岩城部長のもとで実績をあげている。

横須賀共済病院・呼吸器外科
外科は第2外科の関連施設であった。胸部外科開設の話が起き後述の両大学が争奪した結果、心臓外科は東京医科歯科、呼吸器外科は横浜市大に決した。その間に当時他病院の部長であった加瀬、小川が急遽交代で赴任し、当時の西山部長(第二外科)の協力もあり呼吸器外科を確保した。現在は、呼吸器外科センター長に諸星部長が就任している。

藤沢市民病院・心臓血管外科
第二外科の山岸教授が病院長になって全科を市大の助教授、講師を部長に引き抜いて作った病院である。
笹岡院長の時に心臓血管外科を開設することになり、初めに、鈴木(伸)が派遣され、ローテートしながら大学と連携して盛り上げていった。現在、山崎部長が2人体制でがんばっている。

関東労災病院・呼吸器外科
石川浩一院長のときに胸部外科を開設する話があったが、なかなか決まらず長く外科でローテーションして待っていた。呼吸器外科が独立し、関連病院となり、田尻、呼吸器科外科部長が就任した。現在の渡部部長に至る。

横浜労災病院・呼吸器外科
病院は平成3年に開設したが、心血管外科を専ら行い、諸星らが肺手術を手伝っていた。平成11年に呼吸器外科を標榜し、しばらくして平成14年に前原が呼吸器外科部長となり関連病院となっている。多くの鏡視下の手術が行われている。

藤沢湘南台病院外科
経営一族の鈴木(紳)が平成7年に院長になり、外科に田村(功)、深野副院長、熊切呼吸器外科部長が就職し、ローテート病院となっている。

7.教室で行われてきた臨床と研究

1.消化器外科グループ
大学では和田、松本喜、岡本、小泉、有田英、遠藤、天野 50年代五島、小泉、天野、今田、田村、山本、野口。成人病センター田村、岡本、本橋彦、河原、本橋孝らが中心となり診療研究に励んでいた。以下各疾患別研究グループの経過を述べる。

(1)胃グループ
当時の胃癌手術はリンパ節郭清を如何に確実に充分に行うかが課題であった。和田教授が昭和43年に胃癌の郭清に際し、腹腔動脈を根部で切離し総肝動脈切除しても膵臓頭部に上腸間膜動脈からの側副路があるので肝への血流は保たれることに着眼し、胃全摘,膵の過半切除によって風呂敷に包むように一塊として摘出した。調べるとこの術式は既にApplebyが行っていた。胃癌手術の郭清が普遍的に行える術式として認知され、和田教授が本邦で胃癌の根治性の高い手術として広めた。それに伴い安全性、根治性、治療成績、術後の病態の検討が大学と成人病センターで行われた。
肝の血流の安全性について、河原は腹腔動脈と上腸間膜動脈の動脈造影で側副路の分枝を解明して安全な型を明らかにした。総肝動脈切除に伴う肝機能の問題、一塊としてのリンパ節の郭清の意義、胃全摘と膵大量切除による糖代謝、腹腔神経叢切除に伴う胆嚢収縮能について、成人病センター(岡本、本橋、河原)と、大学の(天野、鈴木、今田、山本)スタッフが共同で研究した。また、胃切除後の骨障害について利野らが研究した。
下部食道・噴門癌のアプローチ術野の展開について、胸骨縦切開法(和田)、吊り上げ鈎(MA鈎の作製)による後縦隔操作(天野)を容易にした。
染色法の工夫で微小リンパ節転移の存在〔天野〕、微小播種病変の機序〔今田〕、血管内微小癌細胞と転移〔野口〕、さらに今田は機能温存手術、鏡視下手術(今田、利野)、野口の指導により癌の代謝の研究が行われ、数々の博士が誕生した。今田、山本、野口の時代から利野、円谷、吉川が活躍している。

(2)食道グループ
左結腸動脈を茎として結腸による食道再建術(和田)は 胃を温存できるため注目を浴びた。さすがに血管外科から消化器外科に専攻をかえたから考案出来た術式であった。小泉の代用食道の動物実験、ブレオマイシンが皮膚がんに著効を認めていた。そこで同じ扁平上皮癌である食道癌に用いたところ著効を呈した。術前投与して組織学的にも著明な効果があった(天野)。当時学会の重鎮である中山教授に「もし君が食道癌になったとして、私が手術を行うのと、その薬を使うのとどちらを選ぶか」との質問で、当時若輩と見なされていた和田教授が「後者を選ぶ」と答えて有名になった。副作用の間質性肺炎についてモルモットでの作成、予防について〔岡本、天野〕の研究がされた。
食道の壁外浸潤を診断する方法として内視鏡下に食道壁を貫いて気縦隔撮影(小泉)を考案した。食道癌他臓器への浸潤を確かめ。手術適応を決めるのに役立った。内視鏡下に壁に造影剤(リピオドール)を注入して壁内の深徹度を診断する壁層造影法を開発(赤池)した。当時は画期的な診断方法であったが、診断技術の向上で現在は行われていない。
人工食道と挿管法(青山)硬式縦隔内視鏡による食道抜去術(天野)なども行われていたが現在は食道ステント留置やバルーン拡張に代わっている。さらに、遊離空腸の下咽頭頚部食道移植法(松本、天野)、がんセンターの小泉の指導で青山、小澤、南出らの研究が進められ成果を挙げた。
食道色素内視鏡検査で早期の表在癌の診断が画期的に向上した。日本食道表在癌研究会〔代表:小泉〕で玉井が活躍した。

(3)大腸・肝胆膵グループ
肝切除に関しては(鈴木弘)により安全な超音波併用手術となった。神奈川県立がんセンター〔杉政、森永〕、秦野赤十字〔鈴木弘、蓮尾〕が肝癌の症例を集めている。県立がんセンターと県立こども医療センターが協力して生体間肝移植も行われていた。遊離肝細胞の冷却保存について鈴木弘が研究を行った。大腸癌研究は県立がんセンター〔武宮、赤池〕と研究所により進展している。

2.乳腺甲状腺外科グループ

(1)乳腺グループ 
乳房撮影法による悪性所見(昭和41年に有田峯)、染色法の工夫で腫瘍内血管侵襲の意義〔野口、佐々木)乳癌組織悪性度(麻賀、藤沢)が行われた。関連病院の部長達(城島:秦野赤十字、須田:済生会南部、麻賀:県立がんセンター、清水:南共催)が連携して研究の牽引役となった。

(2)甲状腺グループ
甲状腺癌の治療に関する研究は五島の指導のものに研究され、岩崎がWashington大学に留学して、甲状腺疾患(MEN)の遺伝子解析の道を開いた。継いで平川、松津らはWake Forest大学に留学しSIPPLE症候群の遺伝子解析を研究した。

3.心臓血管外科グループ
心臓血管グループが松本(昭)を長として独立し、井出、貴邑、佐藤、近藤、熊田、後藤らがそれぞれ活躍した。(松本教授、近藤助教授、佐藤講師、後藤講師)

(1)心臓血管グループ

  • 超低体温による開心術:エーテル麻酔下に氷漬にし、食道温を20度前後にし、心停止下で開心術を行う表面冷却超低体温法の開発された〔佐藤〕。これにより先天心の手術成績が画期的に良くなった。これを用いた手術の病態生理についての研究,心筋代謝〔高〕、肺の水分量〔戸部、須田、松村〕の研究をした。この麻酔法で術後管理が特に呼吸管理が非常に楽になったことを覚えている。
  • 胸腹部大動脈瘤の手術の合併症である対麻痺の研究、脊髄圧との関係とその予防法〔近藤〕について研究が行われた。
  • 大動脈瘤の手術でOpen distal anastomosisを考案し、 心停止下に末梢側の大動脈を開放したまま確実に吻合できる。(松本)
  • 冠肺循環を行い低体温下で心停止せずに上行大動脈を遮断する研究〔河野〕、心筋保護法〔相馬〕に関する研究が行われた。
  • 大動脈解離急性期の手術成績向上〔近藤、井元〕について報告してきた。
  • 骨格筋による心機能の補助:低頻度電気刺激により骨格筋の変化〔磯田〕広背筋による心筋の補助〔矢野、神〕など実験をおこなった。

(2)人工血管グループ
初期の熊田を中心に動物実験を行い、材質の適正、人工血管の器質化〔小林〕感染予防(蔵田)吻合部の器質化と吻合部動脈瘤〔熊本〕などの研究が行われた。後に野一色を中心に人工血管に自家組織片移植(大網、骨髄撒布)による動物実験で内皮形成能の向上〔梶原、市川〕などの研究が行われた。

(3)静脈グループ
下肢静脈瘤の造影法の確立〔後藤〕難治性下腿潰瘍の治療〔後藤〕、侵襲の少ない抜去法、超音波による穿通枝、交通枝の診断と治療〔孟〕が行われている。

(4)腎性高血圧の研究グループ
腎性高血圧は外科学会の宿題報告として赴任直後に力をいれた研究であった。吉田悟、石川、尾上、石橋がグループを組んで、動物実験や臨床で腎血流障害に基づく形態病理、生化学的に高血圧の病態を明らかにし、血流を改善する手術で治療をおこなった。

4.呼吸器外科グループ
肺癌病変周囲の細胞変化(小川)、人工気管の研究(富山)、異形・過形成病変のDNA(中山)、肺癌の生物学的悪性度(前原)などの研究が行われた。
肺腫瘍に対する胸腔鏡下手術をいち早く取り入れ、開胸手術に比較して劣らない手術であることを明らかとしてきた。

GIセミナー

昭和58年に消化器疾患の勉強会を関連病院の全体に呼びかけ、研究、診療面での充実を計るためG Iセミナーを開催した。天野、今田、利野と30年以上続いて、93回を数え継続中である。
消化器外科以外にも上述のような研究会が各グループで開催されてきたが省略する。